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迅鯨(じんげい)は、大日本帝国海軍の潜水母艦で、迅鯨型潜水母艦の1番艦であった。 == 概要 == 八八艦隊案で建造された迅鯨は1923年(大正12年)8月に竣工、佐世保鎮守府籍となった。日本海軍で初めて潜水母艦(予備魚雷や糧食を搭載した補給艦)として建造された艦だったが、この時まだ書類上では潜水母艦の類別がなく水雷母艦とされた。翌1924年(大正13年)12月1日の改訂で水雷母艦の類別は潜水母艦と変更され迅鯨もそのまま移行、名実共に潜水母艦となった。同日に第1艦隊第1潜水戦隊に編入され、主に中国方面で活動した。 昭和に入り伊号潜水艦が主力となると、元々呂号潜水艦を想定していた本型では母艦能力が不足となった。また艦齢15年を超え、新鋭艦の大鯨、剣埼の竣工となったため、1939年(昭和14年)11月より練習艦となった。しかしその2艦の空母改装により翌年11月から再び潜水戦隊旗艦に戻ることとなる。 開戦時には第四艦隊第七潜水戦隊旗艦として呂六〇型潜水艦9隻と共にクェゼリンに進出し潜水艦作戦の支援を行った〔#海軍生活放談473頁〕。第七潜水戦隊司令官として迅鯨に将旗を掲げていた大西新蔵少将は、呂六〇型潜水艦の艦内環境は最悪で、南洋での長期行動には堪えられなかったと回想している〔#海軍生活放談477頁〕。また迅鯨乗組員の錬度も低く、前任が戦艦長門の艦長だった大西少将は「潜水艦育ちの人達には、凡そ縁遠い訓練なるが如く、司令官自ら砲戦を主宰するの要なり」と苛立っていた〔#海軍生活放談479頁〕。 1942年(昭和17年)2月1日に米空母ヨークタウンとエンタープライズがマーシャル諸島を空襲した際には、トラック泊地に停泊しており無事だった〔#海軍生活放談482頁〕。その後、迅鯨は日本に戻り、4月18日のドーリットル空襲を横浜浅野ドックで迎えた〔#海軍生活放談489頁〕。迅鯨に被害はなかった。5月2日に横須賀を出港、5月9日トラック泊地に進出する〔#海軍生活放談491頁〕。7月14日に第8艦隊が新設されると第7潜水戦隊は第4艦隊から第8艦隊へ移動し、迅鯨もトラック、ラバウル方面へ進出し作戦支援を行った。1943年(昭和18年)1月15日に海軍潜水学校練習艦となり、以降は瀬戸内海で訓練に従事した。 1944年(昭和19年)8月より沖縄方面への輸送任務に就くこととなり同方面と呉を往復した。同年9月19日佐世保港を出港し那覇に向かったが潜水艦の雷撃により航行不能となる。沖縄本島西の瀬底島まで曳航されたが、10月10日にアメリカ第38任務部隊による十・十空襲に遭遇して沈没した。 船体は1952年(昭和27年)に浮揚され北九州で解体された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「迅鯨 (潜水母艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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